「赤字だから仕方ない」 そんな“ローカル線廃止論者”に、私が1ミリも同意できないワケ

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(Merkmalより、ルポライター昼間たかしさんの一文です)

「赤字だから仕方ない」 そんな“ローカル線廃止論者”に、私が1ミリも同意できないワケ | Merkmal(メルクマール)近年、赤字ローカル線の廃止論が加速するなか、効率性一辺倒の議論が地域社会の価値を見失わせている。特に久留里線の例では、1日60人の利用者と高い営業係数が廃止理由に。しかし、合理化の先に潜む「鉄の檻」の問題を考えると、公共交通が持つ社会的意義を再考する必要がある。merkmal-biz.jp

近年、赤字ローカル線の廃止論が加速するなか、効率性一辺倒の議論が地域社会の価値を見失わせている。特に久留里線の例では、1日60人の利用者と高い営業係数が廃止理由に。しかし、合理化の先に潜む「鉄の檻」の問題を考えると、公共交通が持つ社会的意義を再考する必要がある。

合理化の進展と社会的責任

 近年、赤字ローカル線の廃止を求める声がネット上で増えている。特に、2022年7月に国土交通省の有識者会議が示した「駅勢人口比駅利用者率1.5%未満」「駅利用者数100人未満」といった赤字路線の存廃基準が公表されて以降、この議論はさらに加速した。

「どう収支を改善するのか」
「移住以外に解決策はない」
「ノスタルジーに過ぎない」

といった声が目立つ。多くは採算性を重視し、収益が見込めない路線は速やかに廃止すべきだという立場だ。しかし、こうした経済的合理性に偏った考え方は、公共交通が本来担うべき役割や社会的責任を軽視していると言わざるを得ない。

 この問題に対し、マックス・ウェーバー(1864~1920年)が提唱した「鉄の檻」という概念が示唆を与える。

 ウェーバーによれば、合理化が進むと、社会は効率や収益性ばかりを追求し、人間らしさや公共性を見失う危険がある。この「鉄の檻」の概念は、赤字ローカル線の存廃問題にも当てはまる。合理性だけで廃止を進めることは、地域住民の生活や地方の持続可能性を損ない、公共交通が持つ社会的意義を否定することにつながるからだ。

 赤字ローカル線の存続をめぐる議論は、単に採算の問題にとどまらない。地域社会の未来や公共交通の本質を見直すきっかけにもなる。数字や効率だけで結論を急ぐのではなく、その路線が地域や社会全体にどのような価値をもたらしているのか、広い視点で考える必要があるだろう。

経済性一辺倒の限界

 赤字ローカル線の廃止を主張する声は、路線の価値を経済性というひとつの指標で判断しがちだ。例えば、JR東日本千葉支社が2024年11月に発表した久留里線の一部区間(久留里~上総亀山駅)の廃止も、利用者の少なさと赤字が主な理由とされている。

 この区間では1日に17本の列車が運行されているが、平均利用客数は約60人にとどまる。さらに、運営にかかる費用を示す「営業係数」は1万3580円と非常に高い。地元との協議では

「移動需要に対して輸送力が過大」

との意見が示され、バス転換が提案された。このように、利用者が少なく運賃収入で経費をまかなえない路線は速やかに廃止すべきだという考え方だ。

 この立場には、近代資本主義の基本理念が反映されている。限られた資源を効率的に配分し、赤字を続ける事業は社会全体に損失をもたらすという理論だ。しかし、「赤字だから即廃止」という単純な判断には疑問が残る。

 数字だけで地域の価値を評価することは、近代化がもたらした問題のひとつを象徴している。公共交通の意義は単なる収益性にとどまらず、地域住民の生活や地方社会の持続可能性を支える役割も担っているはずだ。

 この視点を無視した議論は、短期的な効率性を追求するあまり、長期的な地域社会の価値を見失うリスクをはらんでいる。

効率追求の代償、自由の喪失

 物事を数字や効率だけで判断する思考は、近代社会が抱える病理として、以前から指摘されている。

 ウェーバーは、近代社会の本質的な特徴として「合理化」の進展を挙げ、社会のあらゆる分野で

・計算可能性
・予測可能性

が重視されるようになったと分析した。その結果、企業は収益性を、行政は効率性を追求し、数値化しにくい価値が軽視される傾向が生まれた。ウェーバーはこれを「鉄の檻」と呼び、合理性を最優先することで社会が抱えるリスクを警告している。

 合理化が行き過ぎると、次のような問題が生じる。

●個人の自由の制約
 過度な合理化は、個人の自己決定や柔軟な行動の自由を奪い、定められたルールに従うことを強制する。社会全体が「鉄の檻」のように硬直化すると、人は単なる「歯車」に過ぎなくなり、創造性や自由な発想が制限される。

●非人間的な社会
 効率性の追求が行き過ぎると、社会や組織は冷徹で非人間的なものへと変わる。人々は機械的な効率性だけで扱われ、感情や存在が軽視される。

●社会的・倫理的価値の軽視
 合理化が進むほど、社会的な公平性や倫理的な判断が犠牲になる。効率が最優先されることで、人間らしさや社会的なつながりが後回しにされる危険がある。

●創造性と革新の抑制
 手続きが極度に合理化されると、新しいアイデアや革新的な取り組みが生まれにくくなる。その結果、組織や社会全体が停滞するリスクが高まる。

ウェーバーが指摘した「鉄の檻」は、近代社会が効率性や合理化を追求しすぎることで、人々の自由を奪い、冷たく非人間的な社会を生み出してしまう可能性を警告している。この考え方は、現代社会においても重要な示唆を与えているといえるだろう。

効率性を超えた価値創造

注目すべき反例として、鳥取県の若桜鉄道の事例がある。

 この鉄道は、効率性だけに囚われないアプローチで新たな可能性を切り開いた。2016年度には利用者数が約31万人にまで減少していたが、地域全体で収支改善にとどまらず、文化的価値や社会的つながりの創出にも挑戦した。

 レトロな駅舎や橋梁を文化財として活用し、観光列車を導入することで、2018年度には利用者数を約35万人まで回復。単なる輸送機関としての役割を超え、地域の核として機能するようになった。

 さらに、沿線の9駅では住民による応援団が中心となり、祭りの開催、地域広報誌の発行、特産品販売所の開設などの取り組みが進められた。この鉄道は、地域コミュニティの結びつきを強化する場として、新たな公共的価値を生み出している。

 若桜鉄道の事例は、ウェーバーが警告した「鉄の檻」からの解放の一例といえる。単なる効率性の追求に終始するのではなく、文化的価値や社会的つながり、さらには地域の未来を見据えた取り組みが実現された。

「使う人がいなくなったら終わり」という発想は、「鉄の檻」的な思考そのものだ。それに対し、

「使う人を増やすことで未来をつくる」

という視点は、豊かな公共的価値を創造する可能性を示している。若桜鉄道の取り組みは、その可能性を具体的に形にした成功例といえるだろう。

地域交通を再評価する視点

「鉄の檻」からの解放は、簡単な道のりではない。近代社会が進めてきた合理化は、私たちの思考に深く影響を与え、効率性が優先される構造を作り出してきた。しかし、この状況を打破する道は確実に存在する。

 まず、地域の価値を評価する新しい基準が必要だ。路線存続が教育機会や医療アクセスにどう寄与するのか、観光資源としての潜在力はどれほどか、災害時にどれだけの役割を果たすかといった、多面的な視点での評価が求められる。こうしたアプローチにより、これまで見過ごされてきた公共的価値を明確にし、地域の本来の可能性を可視化できる。

 次に、公共交通を「コスト」ではなく「投資」として捉える視点が重要だ。地域の交通網は、住民の生活や未来を支える基盤であり、維持にともなうコストは、地域の持続可能性を実現するための必要不可欠な投資だ。効率性と公共性を両立させる道は難しいが、若桜鉄道が示したように、それは実現可能な挑戦だ。半世紀前、田中角栄氏はこう語っている。

「私は、鉄道はやむを得ないことであるならば赤字を出してもよいと考えている。本当にもうからなければならないならば国がやる必要がない。もうからないところでも、定時の運行をして経済発展という立場でこそ国有鉄道法(による鉄道)の必要があると思う」

公共交通の価値再定義の必要性

 鉄道が廃止されることで失われるのは、単なる移動手段だけではない。それは、地域のコミュニティや文化、社会的つながりといった目に見えない価値が一緒に消えてしまうことを意味する。

 赤字だからといって、すぐに廃止することが最適解ではないことを認識すべきだ。鉄道は単なる移動手段ではなく、地域の基盤を支える重要な要素であり、将来への投資だ。

 地域が自らの未来を切り開くためには、効率性と公共性を両立させる方法を探る必要がある。そのためにこそ、新しい価値観を持ち、ローカル線の役割を再評価すべきだ。

「赤字だから仕方ない」――そんな線廃止論者に、私は1ミリも同意できない。

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